Canon
| アイコン | 意味 |
| 戦闘や事故で失った場合(沈没、墜落)や損傷した場合、艦船などの内部で事故や事件がおこった場合の意味です。自軍や同盟軍、所属機関、所有会社が行った沈没処分や破壊処分、漁礁としてまたは演習で使用して沈めた場合にはこのアイコンは付けません | |
| 戦果や功績、各機関に寄贈された場合の意味です。戦争などで沈没し、何十年後に発見された場合もこのアイコンです | |
| 映画やTVドラマ、ドキュメンタリーに使用された場合の意味です | |
| 参考文献、小説や書籍に登場する事柄です | |
| インターネットやTVゲームに登場する事柄です | |
| 不可解な事故&事件およびUFOなど超常現象に遭遇した事柄です |
- ※建設は1909年4月に始まり、5年間続いた。岩の多い島は米陸軍工兵隊によって整地され、鉄筋コンクリートの厚い層で構築された。その結果、全長350フィート(110m)、全幅144フィート(44m)の巨大な構造物が完成し、その外観は戦艦を彷彿とさせるものとなった。最上甲板は、平均低潮位時に水面から40フィート(12m)の高さに位置していた。14インチ(356mm)M1909砲と、それらを収める特注のM1909砲塔2基(“バッテリー・マーシャル Batterie Marshall”および“バッテリー・ウィルソン Batterie Wilsonl”と命名)は、1916年までに搬入・設置された。このM1909砲はフォート・ドラム(フォート・ドラム)専用に設計されたものであり、ほかの場所には配備されなかった。同年には、副兵装である6インチ(152mm)M1908MII砲(M1910台座架台を使用し、ケースメート〈砲郭〉に設置)も据え付けられた。これらは“バッテリー・ロバーツ Batterie Roberts”および“バッテリー・マックレア Batterie McCrea”と命名された。要塞の上面には、探照灯、対空砲、そして高さ60フィート(18m)のラティス構造(格子状)の射撃管制塔が設置された。約240名の将校および兵士の居住区に加え、発電機、射撃計算室、弾薬庫といった施設は、要塞の内部深くに配置されていた。“バッテリー・マーシャル”は、1908年から1910年まで工兵隊長(Chief of Engineers)を務めたウィリアム・ルイス・マーシャル准将 Brigadier General William Louis Marshallにちなんで命名された。“バッテリー・ウィルソン”は、南北戦争における名誉勲章受章者であり、1897年から1901年まで工兵隊長を務めたジョン・モールダー・ウィルソン准将 Brigadier General John Moulder Wilsonにちなんで命名された。“バッテリー・ロバーツ”は、騎兵・砲兵・沿岸砲兵将校であったベンジャミン K. ロバーツ Benjamin K. Robertsにちなんで命名された。彼は退役直前の1905年に、わずか1日だけ砲兵隊長(Chief of Artillery)を務めた人物である。“バッテリー・マックレア”は、南北戦争時の砲兵将校であったタリー・マックレア Tully McCreaにちなんで命名された
| 日付 | 主な出来事 |
| 1941/12 | 1941年12月下旬、日本陸軍によるルソン島への侵攻が成功すると、地上部隊は直ちにフォート・ドラムやマニラ湾内のほかの要塞を射程に収める位置まで進出した。1941年12月7日に太平洋戦域で開戦する直前、フォート・ドラムには第59沿岸砲兵連隊(E砲台) 59th Coast Artillery Regiment (E Battery)の将兵が配置されていた。要塞の甲板上にあった木造兵舎は、ウィルソン砲台の射界を遮らないように解体・撤去された |
| 1942/1 | 1942年1月2日、フォート・ドラムは日本軍による激しい航空爆撃に耐え抜いた。1月12日、要塞の脆弱な“船尾”部分を攻撃から守るため、フォート・フランクからペデスタル・マウント(台座式)のM1903型3インチ(76mm)沿岸砲が移送・設置され、“ホイル砲台 Battery Hoyle”と命名された |
| その翌日の1月13日、コンクリートの砲座が完全に乾燥しておらず、照準調整や動作確認も完了していない状態であったにもかかわらず、同砲台は第二次大戦において敵に対して発砲した最初のアメリカ沿岸砲台となった。この時、フォート・ドラムの脆弱な背面への接近を試みていたと思われる日本軍徴用の島間連絡船を撃退したのである。それまでは、ケージ・マスト(籠状の支柱を持つマスト)型の管制塔が後部主砲塔の射線を遮っていたほか、仮に射界が開けていたとしても、海面からの砲の高さゆえに死角が生じていた | |
| 1942/2 | 1942年2月の第1週には、テルナテ Ternate近郊の本土に配置された日本軍の150mm榴弾砲部隊から、要塞への継続的な砲撃を受けた。3月中旬までに、日本軍は重砲を射程内に移動させ、240mm攻城用榴弾砲による砲撃を開始した。 |
| 装甲砲塔は損傷を免れ、砲撃の間ずっと稼働し続けた。フォート・ドラムの14インチ砲やフランク要塞の12インチ迫撃砲による対砲兵射撃は、効果を上げられなかった。4月10日にバターンでの米比軍の抵抗が崩壊すると、米軍の手に残されたのはフォート・ドラムとその他の湾口要塞のみとなった | |
| 1942/5 | 5月5日の夜、フォート・ドラムの14インチ砲は、コレヒドール島へ攻撃を仕掛けていた日本軍の第二波に対して砲撃を行い、数隻の兵員輸送用舟艇を撃沈し、多大な損害を与えた。フォート・ドラムは1942年5月6日のコレヒドール島陥落後に日本軍へ降伏し、1945年まで日本軍に占領された。厚さ6m(20フィート)の鉄筋コンクリート製屋根のおかげで、フォート・ドラムは1942年2月15日ごろから5月6日にかけて日本軍から受けた集中砲火に耐え抜くことができた。 |
| 4門の14インチ砲塔砲は一度も戦闘不能になることはなく、コレヒドール島陥落の5分前まで効果的な射撃を続けていた。 |
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| 1945 | 1945年、マニラ奪還作戦に続き、強固に要塞化されたこの島は、マニラ湾内で日本軍が保持する最後の拠点となっていた。4月13日、激しい航空および艦砲射撃ののち、架橋用アームを装備した改装型中型揚陸艦(LSM)が要塞の側面に接岸した。米軍はこの展開したアームを使って艦から要塞へと直接乗り込み、素早く上部甲板を制圧するとともに、日本軍守備隊を内部(下層)に封じ込めた |
| 第38歩兵師団第151歩兵連隊第2大隊F中隊 Company F of the 2nd Battalion, 151st Infantry Regiment, 38th Infantry Divisionと第113戦闘工兵大隊 113th Combat Engineer Battalionの分遣隊が、フォート・ドラムへの攻撃部隊に選ばれた。これは彼らがそれ以前に、カバロ島 Caballo Islandのフォート・ヒューズ Fort Hughesにあった迫撃砲陣地への攻撃を成功させていたためである。彼らは陣地への強行突入を試みる代わりに、通気口から陣地内に注入した混合燃料(ディーゼル燃料2対ガソリン1の割合で計2,500米ガロン/約9,500リットル)に対し、白リン弾頭の迫撃砲弾を撃ち込んで着火させるという手法をとった。この方法は、その後の数日間でさらに2回繰り返された | |
| フォート・ドラムにおいて、戦闘工兵隊はフォート・ヒューズで用いた手法に改良を加えた。上部甲板の通気口からガソリン混合液を注入したのち、TNT火薬を用いた時限信管で焼夷手榴弾を起爆させたのだ。米陸軍の複数の撮影班が、マニラ湾周辺からこの作戦の全容を記録した。爆発の衝撃により、重量1tのハッチが上空91m(300フィート)まで吹き飛ばされ、要塞の鉄筋コンクリート壁の一部も破壊された。猛烈な熱気と数日間にわたる内部火災のため、米軍は要塞内部を調査できるようになるまで5日間待機せざるを得なかった。最終的に日本兵68名全員が死亡した(6名は要塞上層階で窒息死した状態で発見され、残る62名はボイラー室で焼死体となって発見された)。フォート・ドラムおよびマニラ湾内のほかの要塞が制圧されたことで、同湾岸地域における日本軍の抵抗は終結した | |
| 1970年代 | マニラ湾の入り口には、第二次世界大戦終結以来放棄されたままのフォート・ドラムの廃墟が残っており、そこには使用不能となった砲塔や14インチ(356mm)砲もそのまま残されている。 |
| ニール・スティーヴンソン Neal Stephensonの |
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- ※参考文献
- ウィキペディア
Update 26/10/11